「神はサイコロを振らない」。アインシュタインのこの有名な言葉は、量子力学の確率的解釈への反発を表している。しかし1930年代以降、物理学界では「コペンハーゲン解釈」が圧倒的な権威を確立し、アインシュタインら異論者を黙らせた。
この現象は「コペンハーゲン独裁」と呼ばれ、科学的真理でさえも権威や資金、政治的潮流によって歪められうることを示す格好の事例である。研究費総額8.7兆円(2024年度、文部科学省)の配分決定権を握る者たちが、実は科学の方向性を左右している現実を、新規事業を手がける我々は見逃してはならない。
権威が支配する科学界の構造
「コペンハーゲン独裁」の成立過程
量子力学のコペンハーゲン解釈は、ニールス・ボーアのコペンハーゲン研究所を中心とした物理学者グループによって1920年代に形成され、量子物理学教育のデフォルト概念となった。興味深いのは、この解釈について「完全なコペンハーゲン解釈を定義する簡潔な声明はどこにもない」という指摘があることだ。つまり、明確な定義もない理論が「正統派」として君臨していたのである。
アインシュタインなどからも反論を受けていたが、理論を覆すほどの決め手に欠けていたため、正当な理論とされてきた。ここに権威の本質が見える。科学的証明の優劣ではなく、影響力のある人物や組織の支持によって「真理」が決定されたのだ。
実際、パラダイムシフトを起こせるのは、ほとんどが若手か異分野の専門家であることが知られている。つまり既存の権威構造に組み込まれていない者だけが、真の革新をもたらしうるのである。
研究資金が創る「真実」
現代の科学界では、研究資金の配分が理論の生存を決定する。産学連携による医学系研究では、特定企業の活動に深く関与することで、研究者には公的な利益のための社会的責務と個人が得る利益との相反が生じる。
企業等営利団体からの資金提供によって実施された医学研究の結果の判断が、資金提供元にとって有利あるいは不利になる可能性がある場合、公正であるべき研究結果の判断に影響をもたらしかねないという利益相反の問題が、現代科学の根幹を揺るがしている。つまり、「何が真実か」ではなく「誰が資金を出すか」が研究の方向性を決めているのが現実だ。
権威バイアスが経営判断を狂わせる
「専門家」という錯覚
ビジネス界でも科学的権威への盲信は頻繁に見られる。権威効果とは、地位や肩書きといった権威的特徴によって、その人物や発言内容に対する評価が高く歪められてしまう心理効果である。「医師監修」「大学教授推薦」といった肩書きを見ただけで、我々は内容を精査せずに信じてしまう。
1960年代にアメリカの心理学者スタンリー・ミルグラムが行った有名な実験がある。一般市民を「先生役」として募集し、「記憶に関する学習実験」だと説明した。先生役は別室の「生徒役」に問題を出し、間違えるたびに電気ショックのボタンを押すよう白衣を着た実験者に指示された。
実際には生徒役は演技をする協力者で電気は流れていなかったが、先生役はそれを知らない。生徒役が苦痛を訴え「実験をやめてくれ」と叫んでも、実験者が「続けてください、実験には責任を持ちます」と命じると、40名中25名(62.5%)が最大電圧まで電気ショックを与え続けた。権威ある実験者の指示に従い、良心に反してでも命令に服従してしまう人間の心理を実証した衝撃的な結果だった。
新規事業開発において、「有名コンサルティングファームの提案だから」「著名な研究機関のデータだから」という理由だけで戦略を決定していないだろうか。権威バイアスは冷静な判断を阻害し、事業の成否を左右する重大なリスクとなりうる。
確証バイアスとの複合効果
確証バイアスとは、自分にとって都合のよい情報ばかりを集めてしまう認知バイアスだが、これが権威バイアスと組み合わさると極めて危険である。自分の仮説を支持する権威ある情報源を探し出し、それを「科学的根拠」として採用してしまうのだ。
血液型占いがその典型例だ。科学が発展した現代社会で血液型と性格に科学的な関連はないと証明されているにもかかわらず、「A型は几帳面」という思い込みが残っている。人は自分が正しいと思いたい生き物であり、権威ある情報源を使って自分の価値観を正当化したがる。
新たなパラダイムを見抜く力
異端から生まれるイノベーション
科学哲学者トーマス・クーンによれば、科学者たちは既存のパラダイムに基づいて問題解決に取り組むが、現状のパラダイムでは説明できない観測結果や現象が蓄積することで、既存パラダイムへの信頼が次第に揺らいでいく。そこで新たなパラダイムが提案され、既存のパラダイムに取って代わる。
量子力学でも、長年にわたり予知不能とされてきた二重スリット現象に関わる量子力学のミステリーを解消する新しい理論が提案されている。従来の非相対論的量子力学では不可能とされた問題を、双対コーシー問題という新しいアプローチで解決しようとする試みだ。
ビジネス界においても、既存の「常識」や「ベストプラクティス」が通用しない事例が増加している。新規事業を成功させるには、権威ある既存理論に依存せず、自らの観察と仮説検証を通じて新しい解を見つけ出す姿勢が不可欠である。
批判的リアリズムの重要性
重要なのは、現在のコンセンサスも歴史的産物に過ぎないという認識だ。グーグルがクリック率やUX指標などの行動シグナルを使って検索順位に影響を与えている事実が判明したように、情報の権威性も技術的操作によって作り出される場合がある。
人間が合理的な意思決定を行うための認知的リソースが限られているため、完全な最適化を追求するよりも、ある程度満足できる水準で決断を下す傾向があることを理解し、意識的に批判的思考を働かせる必要がある。
権威ある情報源からの情報も、必ず複数の角度から検証し、反対意見も探索する。特に自分にとって都合の良い結論を支持する権威については、より慎重な検討が求められる。
まとめ
科学的権威の危険性は、その影響力の大きさにある。診療ガイドラインや指針の策定にかかる委員会には関連する企業との金銭的なCOI関係が深い場合も多く、企業側に有利なpublication biasやreporting biasが起こりやすい現実を直視すべきだ。権威とは時として、特定の利益を追求する者たちによって構築された虚構に過ぎない。
新規事業開発や経営判断において「科学的根拠」や「専門家の意見」を聞く際は、その背後にある資金の流れ、権力構造、利害関係を必ず確認する必要がある。真のイノベーションは、既存の権威に盲従せず、自らの観察と論理的思考から生まれるのである。量子力学の「コペンハーゲン独裁」が示すように、今日の常識は明日の迷信となりうることを忘れてはならない。